【プロの眼】戦場のプロ 傭兵・高部正樹
第10回 求職から引退まで
働き方と傭兵人生
皆さんが職業としての傭兵について考える時、最初の疑問は「どこで募集しているの?」「どうやってなるの?」「待遇は?」「老後は?」といったことではないでしょうか。私も初めは分からない事だらけでした。一般的な会社員などとは全く異なる一方で、よく似た部分もあります。今回はそんな傭兵の働き方についてです。
キャリアの中で最も長い時間を過ごしたミャンマーのカレン軍。「来る者は拒まず去る者は追わずのスタンスなので参戦のハードルは低かったです。しかし、ジャングルは戦いもサバイバルも過酷な上、非常に劣勢な戦闘を強いられるため多くの者がすぐに挫折して国に帰りました」と高部氏(筆者提供)
今はインターネットが発達して情報も容易に手に入りますが、私が傭兵になろうと決めた頃はネットなどない時代。情報源といえば、テレビや新聞、雑誌くらいでした。しかしそれだけでは、重要な情報はいつまでたっても手に入りません。
そこで私は、アフガニスタンの取材経験があるジャーナリストに接触し、現地事情に明るい人物を紹介してもらいました。事情通の人から、運よくムジャヒディン(イスラム武装勢力)のオフィスの連絡先と紹介状を手に入れることができましたが、それがなければ傭兵となった私はいなかったかもしれません。
傭兵としての第一歩を踏み出したアフガン時代。乾燥地帯の戦闘を学ぶ。ここで積んだ経験が後のキャリアの土台となった(筆者提供)
現在、傭兵の求職方法は、募集、紹介、あっせんの3つが主流だと思います。
まずは、募集。記憶に新しいところでは、ウクライナのゼレンスキー大統領が国外から兵士を募集するという声明を出しました。ただし、これはかなりのレアケースです。
募集で一般的なのは「徴募事務所」に自ら出向く事です。戦争中の国には徴募事務所が大抵は設けられ、場合により外国人にも門戸を開いています。例えば、旧ユーゴスラビア紛争の当時はクロアチアの主要都市にも事務所が見られました。また、部隊によっては直接受け入れるところもあり、その際は部隊が駐屯するキャンプに直に向かいます。
そして、ある程度の経験を積むと口コミで紹介してもらえるようになります。世界中に散らばった、かつて一緒に戦った仲間たちから「俺と一緒にやらないか」と誘いが来ます。また「タカベは使えるよ」というように、彼らが所属する軍や武装組織の上層部に紹介してくれることもあります。
私がミャンマーからボスニア・ヘルツェゴビナに転戦したのは、こうした仲間からの勧誘からでした。珍しいものでは、アラブの某王族の身辺警護をする戦友から誘いを受けたこともあります。ただし、これらの勧誘は仲間から認められる存在になっていることが条件です。「こいつと一緒にはやりたくない」と思われたら、絶対に声はかかりません。
あっせんといえば、私の戦友でフランス人の優秀な傭兵だったガストン・ベッソン氏(2022年死去)は、ウクライナで名をはせたアゾフ大隊(当時)のリクルーターをしていました。私も14年9月ごろアゾフ大隊に誘われましたが、熟慮の末に行きませんでした。このように、経験豊富なリクルーターがヘッドハンティングする場合もあります。
2009年、クロアチアのブコバルで戦没者慰霊祭に参加。生き残った戦友が集まり、グラスを片手に亡くなった仲間を弔う。写っている兵士たちは国に帰り、ホテルのセキュリティーや森林警備などの仕事に就いた。高部氏の隣がアゾフ大隊のリクルーターを務めていたガストン・ベッソン氏(筆者提供)
応募は写真必須
戦歴を証明する
この世界に飛び込む人間に、ずぶの素人はいません。未経験者はありえず、自国で数年の軍務を経験していることが最低限です。だから傭兵としてデビューできるのは、若くても20代前半からでしょうか。
入隊できたとしても、最初の数カ月は試用期間と見なされます。使えないと判断されたら部隊からキックアウト(解雇)されます。自分たちの命に関わるので、判断は非常にシビアでした。私がボスニアにいた頃も新入りのフランス人がどうにも使えず他部隊に放出され、そこでも使えず憲兵隊に回され、結局そこでキックアウトされていました。
軍人としてのキャリアスタートとなった自衛隊時代。兵士として必要な体力や精神力の基礎を身に付けた(筆者提供)
傭兵の求職活動では写真がとても重要です。かつて、とある民間軍事会社(PMC)に所属するアイルランド人から一緒にやらないかと声をかけられました。条件は当時のレートで日給7万~8万円。最初は2カ月契約で、その後は毎月更新。休暇が欲しければ、更新の時期に取れるという話でした。応募する際は自分の履歴書をその会社に提出するのですが、これまでの戦場での現場写真を添付した方がよいとアドバイスされました。
「高部さんは写真がたくさんありますね」とよく言われますが、撮っていたのは「証拠」として使うためです。この世界、いわゆるほら吹きが非常に多いのです。「自分は〇〇で戦った」と言うだけでは信じてもらえません。現場の写真が自己の経歴の証明になるのです。
われわれは基本的に、現場の写真がない人間は99%信用しません。見せられない理由をあれこれ並べる者もいますが、見せたらまずい人物や物だけ加工すればいい話です。写真のない人間は口だけの偽物だと、自分たちは認識していました。ごくまれに写真を撮れないほど本当にやばい橋を渡ってきた人もいますが、そうしたわずかな特別な一流たちにはやはり特別なルートがあり、表の世界には決して出てきません。
なお、契約内容は雇用する組織によって千差万別です。先進国のPMCであれば、かなり細かいかもしれませんが、多くの場合はざっくりとしています。
「日給または月給を、どの通貨で、いつどのように払う」というような取り決めはありますが、勤務時間とか休日や休暇については非常に曖昧です。福利厚生などありません。契約期間中は「休みなしの24時間勤務」と、われわれは理解していました。突然、敵に攻撃を受けたのに「勤務時間外」とか「今日はオフなので」とは許されません。
高部氏が、あるPMCにリクルートされた時のチームメンバー。左に座るのがリーダーを務めるアイルランド人(筆者提供)
リーダーの条件
何よりも人間性
傭兵部隊は戦闘能力に長けた猛獣のような兵士が重宝されると思われがちです。しかし、それだけともいえません。
例えば、応急手当てや治療を行ってくれる衛生兵。衛生の技術は、非常に専門的かつ傭兵部隊では希少です。衛生兵が1人いるだけで最前線でのモチベーションもかなり違ってきます。その他は、デモリッション(爆破)も重宝される技術でした。このような貴重な技術の持ち主は、戦闘技術が駄目でも一芸に秀でた兵士として重宝されるのです。
傭兵のリーダーはどのように選ばれるのでしょうか。部隊には、小隊長、副小隊長、分隊長、副分隊長などの役職があります。「一番の腕利きが隊長になるのでは」と誤解されがちですが、実は腕前ではありません。もちろん一定以上の経験や技術は必要ですが、上に立つには何より人望が大切です。
例えば、私のボスニア時代の小隊長は兵士としての腕前はそこそこに過ぎませんでした。体力、射撃、他の技術が上回る者は何人もいました。しかし、彼が小隊長であることに異議を唱える者はいませんでした。指揮能力が卓越していたからです。軍隊の指揮官は、オーケストラの指揮者のようなものです。たとえ個々の楽器の演奏がうまくなくても、それらを調和させ、1つの素晴らしい音楽として作り上げるのと同じ能力が求められるのです。
何より彼は人望がありました。その口癖は「コマンダーファースト」。日本語では「指揮官先頭」といったところでしょうか。部隊では常に前に立ち、部下たちだけにリスクを負わせるようなことはしませんでした。
「俺の代わりは、この部隊にいくらでもいる」と言っては、自重を促す兵士たちに構わず共にリスクを背負ってくれる指揮官でした。だから「隊長に遅れるな」「隊長を死なせるな」と皆は団結できたのだと思います。傭兵部隊はシビアに能力だけを計られる印象かもしれませんが、そこはやはり人間。そういう気持ちの部分が意外に大切なのです。
傭兵をアウトローの権化のように考える人もいますが、隊長以外でも人望や人間性がかなり重要です。傭兵はみんな一定の戦闘経験があり、武器を手にしているのです。「あいつは気に入らない」と憎まれてしまえば戦闘のどさくさに紛れて後ろからズドン、ということもないわけではありません。人望や人間性は、自らの身を守るためにも重要なのです。
ボスニア時代。市街地や森林での戦闘を経験し、人脈も一気に広がった。「この後、各地に散らばっていった戦友たちから世界各地の戦争・紛争やリクルートの情報も集まるようになりました」と高部氏(筆者提供)
40代が区切り
一線の引き際
傭兵はいつまで続けられるのか。何歳くらいで一線を退くのでしょうか。これもまた千差万別です。30代で区切りをつけて「戦争はもう十分だ。次は金と女をつかむ番だ!」と一般社会に戻っていく人がいれば、50歳を過ぎても軍に残る人間もいました。
だけど、私の見たところでは大体は40代前半~半ばくらいが1つの大きな区切りでしょうか。その頃には、誰もが体力や気力の衰えを感じ始めるのだと思います。
その後の進路は、一般社会に戻るのであれば、前述した某王族の身辺警護のように警備関係の仕事に就く者が多いようです。軍から要請されて残る者もいます。その場合は、大体は兵士をコーチするインストラクターや作戦を練る幕僚のような後方勤務となります。
引退前後に手掛けた仕事の一部。著書の他、高部氏自身がモデルになった漫画も(筆者提供)
私はというと、42歳で引退を決意してカレン軍を去る時にインストラクターを要請されました。しかし、若者たちを最前線に送りだしながら自らは後方に残るという仕事はやる気が起きず、身を引くことにしました。その後は、日本に帰国して自分の経験を書籍にしたりコメンテーターや軍事評論家として講演したりと、さまざまな仕事をして今に至ります。
引退した仲間たちの多くは一般社会になじめず、苦労している者がほとんどのようです。それでも彼らから愚痴の1つも聞こえてこないのは、生き残ったことへの感謝と自信、そしてこれまでの人生に誇りと満足感を持っているからなのではないかと思います。