NNAカンパサール

アジア経済を視る December, 2022, No.95

【プロの眼】戦場のプロ 傭兵・高部正樹

第8回 死んだらどうなる?
    知られざる死後の話

人は亡くなると、どうなるのでしょうか。日本なら医師が確認を行い、死亡診断書が出ます。業者に葬儀について相談し、役所で火葬の手続きをし、故人の勤務先や知人に連絡したり自宅や職場の遺品を整理したり‥‥と、すべきことや流れはおよそ決まっています。では、兵士や傭兵が戦場で亡くなると、どうなるのか。今回はそうした「死」のお話です。

ミャンマーのカレン軍で毎年8月に行われる戦没者慰霊式典(第5旅団)のセレモニー。花輪を掛けた竹のくいは、戦没した外国人兵士たち一人一人のために作られた式典用の簡易墓標(筆者提供)

ミャンマーのカレン軍で毎年8月に行われる戦没者慰霊式典(第5旅団)のセレモニー。花輪を掛けた竹のくいは、戦没した外国人兵士たち一人一人のために作られた式典用の簡易墓標(筆者提供)

ちょうど、この原稿に取りかかろうとした時、ウクライナで日本人の義勇兵が死亡したというニュースの第一報が入りました。彼は自分の意思で覚悟の上で参戦したのでしょうし、この世界は死ぬのも契約のうち。謹んで冥福を祈りたいと思います。考えるには良い機会なので、今回は「外国人兵士が戦場で死んだら、どうなるのか?」について書きます。

戦死者の遺体は、可能なら戦闘中かその合間に回収されます。そして、大抵は後方に送られて荼毘(だび)に付された後、各種の手続きに入ります。ただ、戦闘の激化などさまざまな理由で後送できない場合があります。そういう時は、故人の尊厳や衛生上の理由などにより、その場で埋葬されます。

ミャンマーのカレン軍では部隊葬が行われました。外国人の墓碑は現地人のものと区画こそ分けられましたが、基本的には同じ墓地に建てられました。

ボスニア・ヘルツェゴビナも大体同じでしたが、ごく簡単なセレモニーが同じ外国人の兵士のみで行われ、正規軍兵士が参列したのはあまり記憶にありません。戦死者と特に仲の良い正規軍兵士が参列したことがあったので禁止されていたのではないと思いますが、やはり外国人兵士との間に心理的な壁が存在していたのでしょう。

それらに比べ、アフガニスタンはちょっと違っていました。外国人は、現地人の墓地から離れた場所にぽつんと埋葬されました。恐らく異教徒のためだと思いますが、はっきりしたことは分かりません。

もちろん、埋葬されるだけで終わりではありません。

ボスニアでは、入隊書類に緊急連絡先の記入欄がありました。戦死や重傷を負った時のためですが、記入は任意で空欄でもOKです。実際、入隊者の8割以上は空欄で、私も空欄にしていました。傭兵になろうなどという人間はみんな、多かれ少なかれ過去のしがらみを嫌っているからです。しかし、中には記入する者もいました。

記入者が亡くなった場合、小隊長が手紙を書くことになります。隊長によっては戦死の状況や生前の功績をたたえる言葉を添える人もいますが、ほとんどの場合は戦死の日時、場所、亡くなった事実だけを淡々と伝えるだけの短いものでした。

亡くなった兵士に弔意を示す「ささげ銃」の姿勢をとる、ミャンマーのカレン軍(筆者提供)

亡くなった兵士に弔意を示す「ささげ銃」の姿勢をとる、ミャンマーのカレン軍(筆者提供)

墓を掘り返し火葬
理解得るのが大変

外国人の場合、どこの戦場でもいったん埋葬された遺体について遺族が引き取りを希望するとはあまり耳にしませんが、日本人はまず間違いなく身内が遺骨の引き取りを希望します。

今般のウクライナでの事例のように、メディアに大々的に報じられたら政府も動かざるを得ませんが、そうでなければ勝手に戦場に行って死んだ人間のために、国は手をかけてはくれません。遺骨を飛行機に乗せ、帰国させる手続きは現地の日本大使館にお願いしなければなりませんが、そこに至るまではわれわれや遺族が行う必要があります。

アフガニスタンで亡くなった日本人ジャーナリストの墓。「後日、私も協力して墓を掘り返し、遺体を火葬しました」と高部氏(筆者提供)

アフガニスタンで亡くなった日本人ジャーナリストの墓。「後日、私も協力して墓を掘り返し、遺体を火葬しました」と高部氏(筆者提供)

日本人が戦地で亡くなった場合、連絡先が分かれば遺族にまず連絡をとります。大抵、遺族は遺骨の引き取りを希望しますが、そのためには現地で火葬せねばなりません。この火葬が大変です。戦地ではだいたい土葬していますので、まず墓を掘り起こします。それだけでもとんでもない事ですが、火葬の習慣がない地域の人々にとって遺体をさらに焼くなんて言語道断。よく理解を得る必要がありました。

アフガニスタンで亡くなった日本人の遺骨回収にも携わった事があります。現地で遺体を掘り起こし、その場で火葬。パキスタンを経由して日本に持ち帰る‥‥という手はずが、アフガニスタンで火葬の理解を得るのが大変でした。日本の風習を説明し、何とかムジャヒディン(イスラム戦士)たちを説得できたものの、彼らは「一切の作業の協力はできない」と、はるか遠くから見つめるだけ。灼熱(しゃくねつ)の太陽の下、墓の掘り起こしから火葬まで全て、わずかな日本人の手で行いました。

埋葬地を敵が占領
僧侶に交渉お願い

カレン軍に参加して戦死したある日本人兵士の場合は、また違う苦労がありました。埋葬場所が敵のミャンマー軍に占領されてしまったのです。

それでも遺骨を希望する遺族のため、関係者が動きます。まずは現地在住の邦人がタイの僧侶に事情を説明。説明を受けたタイの僧侶がミャンマーの僧侶と相談し、そのミャンマーの僧侶はカレン軍の敵である現地のミャンマー軍部隊の司令官と交渉します。そのおかげで「1時間だけなら、われわれは手出しをしない」との約束を得て、どうにか僧侶同伴の元で遺体を回収した事もありました。

敬虔(けいけん)な仏教国で僧侶が特別尊敬されるミャンマーでも、その交渉は相当苦労したと聞きます。もちろん、遺体が日本人兵士という事実は伏せられました。そうと分かれば多分、許されなかったでしょう。

われわれがお手伝いするのは、この遺骨回収まで。この後、現地の日本大使館に届け出て、遺骨の移送に関するさまざまな手続きをするのは遺族にお任せしました。

このように、日本人は身内に遺骨を引き取ってもらえましたが、他国の兵士の場合はその限りではありません。カレン軍でフランス人が戦死した際、遺族に遺体引き取りを拒否された事がありました。そのため、われわれは現地に埋葬したままにしようと思ったのですが、タイにある仏大使館の駐在武官から連絡が入り、引き取りを申し出たのです。

思い起こせば、フランスの駐在武官は時折国境に姿を見せ、カレン従軍のフランス人兵士と接触を繰り返していました。戦死した彼も、恐らくは情報収集など何か協力していたかもしれませんが、それにしても日本では考えられない対応だと感心したものです。

カレンの戦没者慰霊式典。外国人用の簡易墓標には写真かネームプレートが取り付けられる。普段は中央奥にある常設の慰霊塔で一緒にまつられている(筆者提供)

カレンの戦没者慰霊式典。外国人用の簡易墓標には写真かネームプレートが取り付けられる。普段は中央奥にある常設の慰霊塔で一緒にまつられている(筆者提供)

自分の荷物は最小限
仲間に迷惑かけない

クロアチアのブコバル市で開かれた戦勝・戦没者慰霊式典のパーティー。生き残ったかつての戦友たちと再会する高部氏(筆者提供))

クロアチアのブコバル市で開かれた戦勝・戦没者慰霊式典のパーティー。生き残ったかつての戦友たちと再会する高部氏(筆者提供)

戦死者が出ると、遺品の整理もしなければなりません。日本に残された物は遺族にお任せしますが、現地に残る物は遺族にとって重要と思われる物を除いて仲間内で処分しました。大抵は、仲間に迷惑をかけたくないので「荷物は捨ててくれ」と伝えていたものです。また、持ち物もなるべく少なくするよう心が けていました。

私はカレン軍に従軍時、一緒に戦う日本人と2人で日本のアパートを借りていましたが、荷物は小さなテレビ1台と着替えぐらいでした。スーツケース1つ有ればいつでも引っ越しできる程度で、海外に出る時には部屋はほぼ空。それで十分という事もありますが、やはり万が一の時に仲間に迷惑をかけたくないからです。

ボスニアでは、連絡先を残した兵士の遺品については、その遺族に確認を取りました。しかし、連絡先が空欄あるいは遺族が引き取らない遺品などは、ほとんど廃棄されます。まだ使えそうな装備品だけ小隊長室にストックされ、部隊の者が使用できました。こうした遺品が、残る仲間の助けになっていたのです。遺品の山が日々高くなっていくのが寂しくて、みんな笑えないジョークをつぶやきながら仲間の残した装備を持ち去ったものでした。

日本の人によく聞かれるのが「亡くなったら補償はあるの?」という質問です。一言で言えばありません。正規軍の兵士はあるでしょうが、われわれは外国人。現在のような民間軍事会社(PMC)や、ウクライナのような国家の公募ならあるかもしれませんが、当時はいわゆるフリーランスです。負傷で障害者になろうが死のうが、それら全て自己責任。部隊葬でも挙げてくれれば良い方です。多くは仲間内で簡単なセレモニーと埋葬が行われて、おしまいでした。

新人へ「遺書書くな」
死を意識すると死ぬ

われわれは常に死と隣り合わせですが、戦場の生死は努力だけではどうしようもありません。そのため、験を担ぐ兵士も大勢います。

私の場合、左右を選択する場面では「常に左を選ぶ」。そういう場面で左を選んだために難を逃れたという事が何度か続いたからですが、戦場の生死は運が支配する部分が大きく、本当にばからしい事でも験を担ぎたくなるものです。

そうした中、カレン軍の日本人兵士の間で、まことしやかに語られていたのが「遺書は書かない」というものでした。遺書を書いたある兵士は半年もせずに戦死。また、別の者は「俺には死がお似合いだ」と口にするようになってほんの数カ月後に亡くなりました。自分の死を強くイメージした人間から死んでいくからです。

恐らく、自己暗示ではないかと私は思っています。戦場は何となく生き残れる所ではありません。必死に努力し、やっと生き残れるかどうかという場所です。そこで自らの死を強くイメージしたらどうなるでしょう。度重なる選択の中、無意識に自らを死に追い込む選択をしてしまうのではないでしょうか。今もそんな気がしてなりません。

だから私は、新人が来るたび「遺書は書くな」「軽々しく死を口にするな」と教えました。

もちろん、われわれは軍人です。場面によっては、命を捨てなければならない時もあるでしょう。しかしその時までは、生きて、生きて、生き抜いて戦い続けるのも兵士の道だと思っています。

そのように「死」が横行する世界ですが、われわれ外国人兵士に対しても大きな敬意を払ってくれたのが、カレン軍でした。戦死者を部隊葬で手厚く弔ってくれただけではなく、毎年8月に行われる戦没者慰霊祭では戦没外国人兵士に対しても、ささげ銃と花輪で現地兵同様に弔ってくれました。

後年、日本人有志の手によって戦没した日本人兵士のための「自由戦士之碑」が建立された時にも、かつての同僚のみならず、一般のカレン人が除幕式に大勢訪れてくれました。彼らの多くが日本人戦没者の功績をたたえ、その死を惜しんでくれたのです。

カレンで亡くなった日本人兵士のための慰霊碑「自由戦士之碑」。タイとミャンマーの国境に日本人有志の手で建立した。建立式典には、日本から神主が来て慰霊。多くのカレン人も参加した(筆者提供)

カレンで亡くなった日本人兵士のための慰霊碑「自由戦士之碑」。タイとミャンマーの国境に日本人有志の手で建立した。建立式典には、日本から神主が来て慰霊。多くのカレン人も参加した(筆者提供)


高部正樹(たかべ・まさき)

1964年、愛知県生まれ。高校卒業後、航空自衛隊航空学生教育隊に入隊。航空機の操縦者として訓練を受けるも訓練中のけがで除隊。傭兵になることを決意し、アフガニスタン、ミャンマー、ボスニアなどで従軍する。2007年、引退し帰国。現在、軍事評論家として執筆、講演、コメンテーターなどの活動を行う。著書に『傭兵の誇り』(小学館)、『戦友 名もなき勇者たち』(並木書房)など。自身をモデルにしたコミックエッセー『日本人傭兵の危険でおかしい戦場暮らし』が雑誌『本当にあった愉快な話』(竹書房)で連載中。


バックナンバー

第7回 いつ、どこに、誰が? 「敵」について考える
第6回 さまざまな人生集う 戦場に生きた人たち
第5回 滞在先で紛争発生 命と安全どう守る
第4回 食べるのも仕事の内 試練に満ちた食生活
第3回 戦場超える過酷さ? 収支赤字のお金事情
第2回 銃弾飛び交うアフガン デビュー戦と最初の壁
第1回 「100万人に1人」の男 アジアの戦場を目指す

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