NNAカンパサール

アジア経済を視る November, 2021, No.82

【アジア取材ノート】

香港を去りゆく人たち
増える“覚悟の海外移住”

香港で海外への移民ブームが起きている。8月開催の「国際移民エキスポ」には、2日間で3万3,000人超が来場。日系企業では移住のため退職する従業員も現れてきた。人材流出による競争力低下を懸念する社会の声も高まっている。なぜ生まれ育った故郷を離れるのか。新天地に何を求めるのか。今年に入り、海外へ移り住んだ人たちから話を聞いた。(NNA香港 編集長・福地大介、李綺霊)

英政府は今年1月末、香港市民向けに特別ビザの申請受け付けを始めた。香港政府が発給する香港特別行政区旅券(HKSARパスポート、左)と、英国海外市民旅券(BNOパスポート、右)=NNA撮影

30代女性の梅さんは今年6月下旬、夫とともに英国へ移住した。夫の仕事はIT関係。新型コロナウイルスの影響で昨年からテレワークが中心となり、勤務先がタイミング良く英国市場の開拓を図っていたこともあって、夫は移住後も同じ仕事を続けている。

夫婦で海外移住を考え始めたきっかけは、2014年の大規模民主化デモ「雨傘運動」だった。「社会に対して無力感を覚え、香港でマイホームを持つことも、子どもを生んで育てることも考えられなくなった」と振り返る。

19年には「逃亡犯条例」改正案をきっかけとした大規模な反政府運動も起きたが、それが昨年6月末の香港国家安全維持法(国安法)施行によって抑え込まれるに至って「完全に失望した」という。日々のニュースに心を痛め、昨年12月に香港を離れることを決意した。

移住の実現まで約半年を要したが、最も時間を費やしたのは引っ越し荷物の輸送手続き。「海外移住する人があまりにも多いため運送会社を押さえるのに数カ月かかった」と教えてくれた。

香港では年収約80万HKドル(約1,140万円)だった夫妻だが、移住で梅さんが無職となり3分の2ほどの約55万HKドルに減った。梅さんは英国で職業資格を取得し、再就職先を探す計画だ。

「国安法の施行後は政治環境に不確実性が増えた。香港政府は信頼できないし、朝令暮改の政策にビクビクしたくない。今は戻ることは考えられない」(梅さん)

「子どものため」
英国で倉庫勤務

40代男性の陳さんは、妻、子ども3人(8、7、4歳)、妻の母を連れて一家6人で今年2月に英国へ渡った。大企業の物流部門を辞しての大きな決断だったが「子どもたちの入学手続きも、こっちでの職探しもスムーズに進んだ」と安堵(あんど)している。

海外移住の仲介業者が一堂に会した国際移民エキスポ。各社の相談ブースには、香港を離れることを考えている多くの市民の姿があった=8月29日、香港・湾仔(NNA撮影)

海外移住の仲介業者が一堂に会した国際移民エキスポ。各社の相談ブースには、香港を離れることを考えている多くの市民の姿があった=8月29日、香港・湾仔(NNA撮影)

陳さんも梅さんと同様、近年の香港を取り巻く政治への不信感がきっかけだった。「19年の反政府運動ではデモの現場も目にしたが、政府の鎮圧手法に大きな不満を感じ、香港を離れることを決心する導火線になった」と話す。

加えて義母の経営する会社が倒産し、生活は悪化。「物価がどんどん上がり、稼ぎは日常の暮らしに全て消える。子どもたちの生活の質を維持できるか不安になった」(陳さん)。昨年春に友人から移住の代理業者を紹介され、本気で計画するようになった。

当初は家族だけ海外へ移し、自分は香港で仕事を続けて仕送りしようと考えていた。ただ、代理業者を通じたカナダへの移住がうまくいかず、結局は一家で英国へ行くことを選んだ。

英国では物流倉庫の働き口を見つけた。収入は「最低賃金より少し高い程度だが、6人で生活できる分はある」といい、香港に戻ることは「政治問題が心配なので当面は考えられない」としている。

中流家庭の相談増
流行3~5年続く

昨今の移民ブームは、19年6月以降に本格化した反政府運動に伴う社会の混乱が引き金になったとの見方が一般的だ。香港を離れる人たちは、子どもの教育と社会環境の変化を主な理由に挙げる。

英国への移住コンサルティングを手掛ける英君集団(UKマジェスティー、UKM)は、7月に10世帯以上、8月には20世帯以上を海外へ送り出した。文偉成(ウィルソン・マン)首席移民顧問は「現在の移民ブームは3~5年は続くだろう」とみる。同社を訪れる人の中には、医療や教育といった分野の専門職が目立って増えている。

20代、30代の若い移民希望者が増えたと指摘するのは、同じく移住コンサルの創思顧問集団(クリエーティブ・コンサルティング・グループ・インク、CCGi)の陳穎珊(ベリンダ・チャン)創業者兼マネジングパートナー。

従来、高学歴の専門職や高級管理職の顧客が多かったが、今年に入り学歴や技術、業務経験に関係なく「中流家庭」の相談が中心になってきた。「以前は45歳以上の夫婦で子どもは15~18歳。今は25~35歳の夫婦で子どもはいないか小学生、が主要な顧客層のイメージ」と説明する。

若い移住者が増えた背景については、英国やカナダが国安法の施行などに伴う香港市民への支援策として移住受け入れを拡大していると指摘。会員制交流サイト(SNS)で移民に関する情報が増え、不安感が減ったことも行動を後押しすると見る。

移住者に関する公式統計は存在しないが、多くの人口が流出していることは香港政府の人口統計からもうかがえる。

政府統計処が8月に発表した21年年央時点での人口データ(速報値)は739万4,700人で、前年同期比1.2%減少した。大規模な反政府運動が起きた19年の年末人口は752万800人だったが、そこから1年半で12万6,100人減ったことになる。

こうした状況から、専門職を中心に人材不足が起き始めている。香港メディアの報道によると、公立病院を所管する医院管理局(HA)の責任者が、医師や看護師の不足は海外移住と関連があると発言。児童と教員の減少が共に伝えられる教育部門では、「近ごろ多くの人が香港を離れる選択をしていることは事実だ」と教育局の局長が認め、影響が大きいなら対策を講じる考えを明らかにした。

「欠員補充」で求人
日系の影響も表面化

働き手の減少は、日系企業にも兆候が表れている。

7月、日本貿易振興機構(ジェトロ)香港事務所と在香港日本総領事館、香港日本人商工会議所がビジネス環境に関する定例の共同調査を行った。その結果、国安法制定の影響として「従業員の香港からの移住」を挙げた企業が17社あった。有効回答数は280社あり、まだ全体から見れば大きいとはいえないが、これまでは目立つことのなかった回答だ。

ジェトロ香港事務所の高島大浩所長は「今までの調査でも2~3社あったが、今回は比較的まとまった数が出てきた」と指摘。現時点で「日系企業の経営に大きな影響を与えるほどではない」と断りつつも、今後注目していくべき問題の一つとの認識を示した。

注:3月9日時点

商議所の柳生政一事務局長は、移住による離職者は金融や精密機械の業界で比較的多いと分析する。渡航先でも役立つ専門性がある人や、入社10~15年の中間管理層の離職が報告されているという。

人材紹介大手ジェイエイシーリクルートメント(JAC)は、7月に発表した人材市場の動向に関するリポートの中で、香港では海外移住による退職者の欠員補充が新たな採用目的になっていると報告。日系関連の求人市場にも市民の海外流出による影響が出ていると明らかにした。

JAC香港の渡邊晃久プリンシパルコンサルタントは、業界に関係なく20、30代の若手が家族連れで香港を離れるケースが多いという。「香港の将来に不安を抱える人たちがいる」と感じている。

ただ、移民による欠員補充は全体から見れば少数で「日系企業がリスクとして認識したり、対策を立てたりする必要があるほどではない」と強調。商議所の柳生氏も「香港では人材の流動は常にある」と指摘した。

「個人の問題」
長官は楽観視

移民問題が大きな関心事となり、背景には香港の政治、社会の変容があると多くの市民が認識する中で、香港政府トップの林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、移民はあくまで個人の問題にすぎないとの立場だ。

林鄭氏は7月の定例会見で「既に海外へ移り住んだ市民、これから移民を考えている市民に掛ける言葉があるとするなら、香港の前途は極めて明るいということだ」と述べた。

定例会見での林鄭行政長官=10月5日(香港政府提供)

その上で「国安法と選挙制度の変更で香港の安全が保障され、中国中央の支持の下で粤港澳大湾区(グレーターベイエリア=広東省の珠江デルタ9市と香港、マカオを含む経済圏)のチャンスは無限だ。香港に帰属感を持ち、ここで頑張ろうとする人にとっては最高の時を迎えているが、それでも移民を選ぶならそれは個人の考えだ」と、将来性を強調する。

一方で日ごろは政府に近い論調の日刊紙、星島日報は8月14日付の社説で「専門人材が出て行くばかりでは経済発展は『失血』による虚弱になる」と危機感を表明。「政府はこの深刻な状況を軽視しては絶対にならない」として、状況に向き合い対応するよう求めている。

〈香港市民の移住先〉
英加豪台湾が人気、日本は言葉の壁

移住者が旅立つ香港国際空港(NNA撮影)

移住者が旅立つ香港国際空港(NNA撮影)

移住先で人気があるのは、旧宗主国で英語が通じることが強みの英国を除くと、カナダ、オーストラリア、台湾が挙がる。年齢や目的、条件によってはマレーシアやポルトガルなども候補となる。

そのほか、アイルランドは「英国との共通旅行区域だが英国の入国条件ほど厳しくなく、欧州連合(EU)に加盟し、英語で進学ができるのが魅力」(移住コンサルUKMの文氏)。日本については「言葉の壁が厚い」といった声もあった。

主な年齢層は40歳前後で、小さい子どもを持つ中所得層の家庭が多い。職業別では、医師や看護師、エンジニアなど専門職のほか、警察、消防、税関などの公務員も一定数いるようだ。

政情不安の香港からの高度人材誘致を巡り、各国・地域は対応を探っている。カナダでは2月に香港住民向けの新たな就労措置を打ち出すと、同国への就労・移住希望者が急増。「問い合わせが2倍に増えた」と話す業者の声もあった。台湾移住の問い合わせも伸びているという。

一方、移住前後に注意すべきこともある。新型コロナウイルス禍の中、昨年8月に英国へと渡った男性は「2カ月滞在したが、仕事が全く見つからず辛かった」と明かした。男性は別の国で仕事を見つけ、移転せざるをえなかった。

移住コンサルCCGiの陳氏は、移住する際は◇移住先の税制と資産管理の仕組みをしっかり調べ、準備する◇子どもよりも夫婦が新しい環境に適応できるかを見極める◇文化的違いや期待感のずれがあると認識する――ことが重要と指摘している。

(NNA香港版 2021年3月9日付より一部再編集)

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