「東西」の本から「亜州」を読み解く
アジアの本棚
『亜細亜熱帯怪談』
高田胤臣 著、丸山ゴンザレス 監修
アジアへの出張や赴任時、滞在先で何者かの気配を感じたことはないだろうか。自分しかいない部屋なのに感じる視線、床のきしみ、不意の物音。ネズミや泥棒とも思えない。いるはずのない「誰か」が、そばにいるような気がする。日本よりも闇深いアジアの夜は、超常的な存在を意識することもあるかもしれない。今回は少し趣向を変えてアジアの怪談本を紹介したい。(NNA東京編集局・岡下貴寛)
本書は、タイを中心に東南アジアの怪談や心霊現象を題材とした怪奇ルポである。各地の有名な事故現場や心霊スポット、日本人の目には奇異に映る慣習や言い伝えを無数に取り上げる。
いかなる怪異が生じ、なぜ恐れられるのかは、その国民の精神性そのものだ。恐怖もすなわち、アジア人の心を映し出す鏡に他ならない。長きにわたり広く伝わる異聞には、人々の行動や情動の根幹をなす歴史的、地理的、文化的なエッセンスが詰まっている。
本書は表紙のおどろおどろしい雰囲気とは裏腹に、断じて安直なオカルト本ではない。集めた事例は非常に豊富で500ページ以上にわたる大作だ。文化人類学の資料や学術書ではないため、気軽に楽しめる読み物として構成されている。
著者の高田胤臣氏は、タイ在住20年のライター。アジアに関するエログロ硬派何でもありの伝説的な大衆誌『ジー・ダイアリー』、その後継誌の『アジアの雑誌』といえば目にしたことのある駐在員も多いだろう。両誌の執筆陣に名を連ねたベテランである。
著者はアジアの人々について「心霊の類に対して日本人以上に恐怖心を抱く。ちょっとでも何か心霊的な出来事が身辺に起これば、夜中に一人でトイレにも行けないほど怖がる性質も持ち合わせている」と指摘する。
自身は「怖いのは幽霊よりも生きている人間の方だ」と答える現実主義者。2004年からバンコク市内での救急救命や事故事件で亡くなった現地人の遺体搬送を行うボランティア活動に従事してきた。そうした活動や日常の生活を通じ、タイ人が心霊現象を語ったり気にしたりする様子を目の当たりにしてきたことが取材のきっかけの一つになったという。
あらゆる怪奇の現場に足を運び、市民や当局や研究者に話を聞き、歴史や社会的な由来を踏まえて考察を重ねる。バンコク市内の心霊スポットの詳細な地図を作り込み、東南アジア各国別の分析も行う。怪奇現象に丹念な取材で向き合うスタイルは、ちまたのオカルト本とは一線を画す。
出産事故で亡くなった女性ナークが幽霊として化けて出ながらも愛する夫と暮らそうとする、タイ版「牡丹灯籠」ともいうべき怪談「メーナーク・プラカノン」。内臓をぶら下げて空を飛び回る、首だけの醜悪なモンスター「ピー・ガスー」。交通事故の死者が手招きするバンコク市内の危険な直線道路「ラートプラオ通りのソイ64」。タイで死亡事件や事故が起きた場所には、なぜか必ず置かれている謎のシマウマの置き物──などなど、登場する怪奇はバラエティーに富む。日本でも聞くような定番の筋書きもあれば、初めて耳にする奇異な話もある。
ちなみに、有名な女性幽霊メーナークを祭る社には連日たくさんの人が訪れるが、どういうわけか現在は恋愛祈願ではなく宝くじにご利益があるとあがめられているという。
理由は「夫婦仲が良いのは経済的余裕があるから」「メーナークが埋葬された墓地の木の皮をはがしたらそこに数字が浮かび上がり、その数字の宝くじを買った人が大当たりしたから」など諸説あるそうだが、やけに即物的で悲運の愛や怨霊のたたりはどこへやらという具合だ。
もしも日本なら、まさか四谷怪談のお岩さんや番町皿屋敷のお菊さんに年末スーパージャンボの大当たりを願う人はいないだろう。例え恐怖の怨霊であっても、どこか緩く共存しているアジア人のユーモラスな気質が伝わってくる。
著者は「怪談に国境はない。タイ人を知る、東南アジアをかいま見る、そして新たなアジアの一面を深く覗き込みたいと望むとき、怪談は有効な手段なのである」と語る。アジア人とのコミュニケーションに悩む日系企業の駐在員にとっては、一つのヒントになるだろう。
あなたの勤務先にも、縁起へのこだわりが強く悪霊やたたりの話をしばしば持ち出してくるローカル社員や取引先、地元政府の役人たちがいるのではないか。その不合理に思える言い分に戸惑いを感じるなら、本書の怪談をひも解いてみることが理解への一助となるかもしれない。
『亜細亜熱帯怪談』
- 高田胤臣 著/丸山ゴンザレス 監修 晶文社
- 2019年9月発行 2,500円+税 544ページ