辺境写真家 栗田哲男
最終回 辺境の人々とともに歩んで
農作業中のチベット系民族ラダック人の女性=インド・ラダック連邦直轄領撮影
私が写真家になった動機は、簡潔に言えば、旅と写真が好きだったからです。しかし、なぜ「辺境写真家」だったのでしょうか。
私は大学生時代、映画監督への道と文化人類学の研究者への道を、それぞれ異なる理由で断念しました。
大学卒業後は国内のある製造企業に就職し、後に中国現地法人の駐在員となりました。以後17年もの長きにわたり中国で暮らすことになります。
現地法人の社長となってからは長期休暇を作りやすくなったこともあり、旅に出掛けるようになりました。誰も行かない、行ったことのない場所を求めて奥へ奥へと分け入っていくうちに、かつて抱いた文化人類学への熱情も再びたぎり始めたのです。中国で正式には民族として認定されていない、「未識別民族」と呼ばれるかなりマイノリティーな人々に会いに行くようになりました。
功徳を積むためにマニ車と呼ばれる仏具を回すチベット族の女性=中国・青海省撮影
印象に残る旅
とても印象に残る旅がありました。中国・海南島に暮らすリー族(黎族)を訪ねる旅です。顔面も含めた全身に入れ墨を入れる文化で知られています。
現地で情報収集し、どこの村へ行けば会えるのかは大体分かったのですが、当時そこへ行く道は何一つありません。山を歩き、草が踏まれていて誰かが歩いたと思われるところを探しては進んで行きました。そうして3日間歩いていくつかの村を回り、どうにか顔などに入れ墨を入れたリー族の人々に出会うことができたのです。
当時それらの村々は非常に貧しい暮らしをしていました。天然ゴムの木を育てていましたが、加工技術を一切持たない彼らは、非常に安い価格でしか売ることができません。かやぶきの家に暮らし、食事は白かゆが主食でした。おかずは、ゆでただけの青菜が1~2品あるのみ。そういった生活の中でも、彼らは見ず知らずの自分を快く受け入れて歓迎してくれたのでした。
ある日、泊めてもらうことになった家のお父さんが、2人の小さな子供に何かを指示しました。すると、子供たちは外へ出て行きました。黎語ですので、私には何を言っているのか理解できません。「お客さんが来たから、邪魔にならないように外で遊んでいなさい」、さしずめそういったことだろうと推測しました。夕食の時間になると、いつもよりも一品おかずが多く出ました。そこにはゆでたタニシがあったのです。そこでようやく気付いたのでした。あの時、お父さんは子供たちに、お客さんに出すタニシを川で採ってくるように指示をしたのだと。
お父さんは、「せっかく遠方から来てくださったのに、こんな粗末なものしかなくて本当に申し訳ないです」と私に言ったのでした。何の前触れもなく勝手に訪れた見ず知らずの私に対してです。
この旅以降、私は辺境の地に暮らす人々の純粋さとホスピタリティーにほれ込みました。こういった類いのことは国・地域を問わず、その後数々の場所で経験することになりました。
リー族が暮らすかやぶきの家(撮影当時)=中国・海南省撮影
リー族の家で、その家の住人と共にいただいた食事=中国・海南省撮影
無知が生む偏見や差別
辺境の地に暮らす少数民族ですが、多くはマジョリティーの民族から少なからず偏見の目で見られています。時には野蛮であるとか、汚いといった表現を投げ掛けられることもあります。
マジョリティーの人々が悪いわけではありません。彼らの多くは、少数民族の人々とじかに接する機会も少なく、彼らがどこでどんな生活を営み、どんな文化を持つのかを知らないだけなのです。「知らない」ということから偏見や差別が生まれてくる、と私は考えています。
私が少数民族の人々を、彼らの生活や文化を含めて撮り続けるのは、私の作品が彼らの理解を助けるのに一役買えればと願うからです。そして、私の旅において手助けをしてくれた人々に少しでも恩返しができればと考えるからでもあります。
最後に、「辺境写真家」とは私自身による造語です。
これからも、辺境写真家として、文化人類学と写真芸術の融合を目指していきたいと思っています。
今回をもちまして私の連載は終了となります。半年間お付き合いいただき誠にありがとうございました。(終わり)