アジアの30年
「あの時、その時、NNAは」記念座談会
左上から、三井信幸・専務取締役/長野雅史・編集局長/中島政之・編集部長
左下から、伊東佐久良・経営企画室/安部田和宏・編集局北九州事務所/宮下幸子・ニュースセンター
香港で創業以来30年間、「アジアの今」を伝え続けてきた株式会社NNA。座談会で記者らが激動のアジアの30年間を振り返るとともに、NNAの情報発信のあり方を語り合った。
黎明期のNNAと香港
──30年前の1989年8月、NNAはどう生まれたのか。
宮下幸子:ある日系企業の駐在で香港に来ていた澤野和彦(2011年死去)が独立し、香港・尖沙咀に小さなオフィスを構えたのが始まり。当時は「WIN HONEST PLANNING」という社名で、貿易関係の事業がメインだったが、香港の経済ニュースのファクス配信も手掛けるようになった。
記事は現地の日本語経済メディア「ビジネスポスト」に所属していた大住昭(現・NNA主筆)らが書いており、WIN HONESTは顧客にファクス配信を請け負っているだけだった。記事データの入ったフロッピーディスクを受け取り、持ち帰って割り付けしてから紙面にし、ファクスで読者に送っていた。
現地の経済ニュースを日本語で読める媒体がなく、澤野が「これはチャンス」と考えたはず。日本企業の進出が目立っていたマレーシアを振り出しに、タイやシンガポール、フィリピン、インドネシアの順に出た後、中国や韓国、台湾にもビジネス情報のネットワークを拡大した。「アジア制覇」のみならず、「世界制覇」が澤野の夢だったと思う。
長野雅史:当時の香港は、英国系財閥が存在感を示し、繊維関連の工場など製造業がまだ健在だった。現在のような不動産と観光、金融だけの経済とは全然違っていて情報の幅も広かったのを覚えている。
アジアの激動の時代に
──1990年代後半のアジアは、香港返還、通貨危機、ジャカルタ暴動など激動の時代を迎える。
安部田和宏:1997年7月1日の香港返還の前夜、当時の立法評議会議事堂で李柱銘・民主党主席の「民主主義万歳」という演説を中環で聞いていた。返還と同時にほとんどの民主派議員が失職。返還前には香港市民のオーストラリアやカナダへの移住が増え、民主主義への危機感があった。
──日本企業による中国進出ブームとなった頃でもある。
安部田:外資導入による経済建設を宣言した1992年の鄧小平氏の南巡講和を受け、広東省への日系製造業の投資が加速した。「世界の工場」と呼ばれるようになる前段階。
長野:中国に弊社の事務所が設立されたのが96年。香港で上海に送り込む要員3人を集め、彼らに大きなマッキントッシュのPCを手荷物で持たせて越境させ、上海に赴任させた。
上海では当時、別の会社が経済情報を日系企業向けに配信していたが、当局に問題を指摘されて突然発行停止になり、弊社も同じことにならないかと顧客から不審がられたこともあった。
──タイの通貨バーツの急落から始まった97年のアジア通貨危機では日本企業の事業に大きな影響が出て、アジア進出の意味が問い直される時期となった。
安部田:東南アジア諸国連合(ASEAN)から一斉に資金が逃げていき、日本企業の活動自体も制限される事態に陥った。当時、マレーシアは資金の流出を防ぐために資本規制を発動して、送金ができなくなった。弊社も現地通貨で給料をもらっていた従業員は日本円換算だと3~4割減ったと聞いている。
──華人のほか多数の庶民が犠牲となった98年のジャカルタ暴動は、現地発メディアの重要性が再認識された。
三井信幸:暴動が起きたあと、日本人駐在員やその家族が一時帰国する様子は大きく伝えられたが、現地にとどまって発信し続けたNNAの緊急情報は、大変重宝されたと聞いている。
長野:どこそこは暴動が発生して、建物が燃えているとか、こと細かな情報をファクス紙面で流していたのを覚えている。あれは良くやったなと思う。当時はインターネット情報も乏しく、インドネシアにいる日本人も日本語で現地の情報が得られない時代だったから。暴動発生直後に香港から現地入りした大住以外、編集は女性記者ばかりだったが懸命に書き続けた。今から振り返ってみると、NNAの拠点の中で最も日本人記者がどう動くべきかが問われた事件だったと思う。
アジア進出ブームに乗って
──2001年に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟し、中国が本格的に世界経済に参入してきた。
三井:私は直前の2000年に香港から上海に転勤して、香港の人から「栄転ですね。これからは大陸ですよ」と言われたが、まだ生活レベルには差があったし、中国が発展していく実感は得られなかった。
ただ情報ニーズは増していて、新規契約が1日に10件という記録もあった。郊外の日系企業を訪問すると、わざわざ来てもらってありがとう、とサインしてくれる。契約報告がある度、編集も営業もそこにいる全員が拍手した。
規制緩和が進む中、日本企業の商業施設などサービス分野での進出も相次ぎ、日本人駐在員もどんどん増えていく時期だったが、失敗事例もちらほらと出てきた。ある日系の商業施設に生鮮食品を納品している業者が、弊社の営業に上海から撤退する計画をこっそり教えてくれ、商業施設に裏を取ったら「実は……」と認めて、NNAがスクープを取ったこともあった。
──東日本大震災が発生した2011年は、タイ・バンコクでは洪水が押し寄せた。サプライチェーンが麻痺し、日系の自動車産業が被害を受けた。
中島政之:東日本大震災で東北などにあった部品工場も被害を受けて、サプライチェーンが寸断されていたところに、バンコクでの洪水。ホンダのアユタヤ工場では大量の新車が水浸しになった。これを機に標高が高い東部のプラチンブリ県や臨海工業地帯に日系工場の移転が進んだ。
安部田:完成車などをASEAN域内に無関税で輸出できるASEAN自由貿易地域(AFTA)協定を使って、タイに集中していた生産体制を、インドネシアやフィリピンなどASEAN各国にリスク分散するきっかけともなった。
ニーズ変化とNNAの未来
──アジアの経済的な発展とともに、現地発の日本語メディアとしてのNNAを取り巻く環境も大きく変化した。
三井:日系企業も現地化が徐々に進み、アジアの経済情報ニーズが変化している。アジア各国・地域にいる日本人駐在員の年齢層もかつては40~50代が中心だったが、20代、30代の若い世代が増えているように感じる。その流れの中で、アジアビジネスの現場に役立つミクロ情報はもちろんだが、本社のアジア担当者が日本にいながら収集し、大局を判断するための現地情報が求められている。NNAも変化が求められている。
長野:ネットを通じてアジアの現地情報がダイレクトに取れるようになったほか、自動翻訳の精度が向上したことで、英語以外の情報を読むハードルも低くなっている。
伊東佐久良:アジアの現地企業のグローバル展開も進んでおり、彼らが近隣国でどんな事業を展開しているのか。読者は例えば、タイの現地企業が中国で何をやっているかという情報を取って、日本本社に報告し、ビジネス戦略を立てていきたいと考えている。
三井:現地報道を参考に紙面づくりをしていると、読者ニーズには追いつかない。問題意識を持ち、テーマを定め、ビジネスに影響ある重要な情報はこれでもかと詳報し、続報する。編集長は読者の顔を思い浮かべてもっとチャンレンジして欲しい。
伊東:ただ読者より前に進みすぎるのはどうだろう。半歩ぐらい前の見本となるテーマなら読者も付いてこられるし、「NNAっておもしろいな、いいな」とは思ってもらえる。同じニュース、同じデータでも見せ方で変わる。常に何かやって進化していることが分かる発信をしていくべきだと思う。(司会=NNA東京編集部 吉沢健一)
ご挨拶
NNAは、1989年に香港で創業、その後アジアを中心に拠点を拡大し、主に法人のお客様向けに現地のビジネス・経済情報を提供する企業として、発展してきました。
現在では、北京からデリーまで13カ国・地域、18拠点に、各国語に精通した人材を配置、精選した記事を毎日約300本配信しています。各国・地域版に加え、基幹商品「NNA POWER」では、アジア全域の過去記事約100万件を検索可能で、他の追随を許さないアジア経済情報の決定版を自負しております。
事業の柱である情報配信では、製造業から金融機関、官公庁まで約7,000社に購読して頂いているほか、Webマガジン/フリーペーパー「NNA カンパサール」の発行、個別調査の受託、セミナー開催などを通じて、きめ細かくお客様のニーズにお応えしています。2014年からは各地の給与動向や統計を網羅した「NNAアジアビジネスデータバンク」をリリース、多角的な情報提供体制を一段と強化しました。
2011年には共同通信グループの一員となり、共同のネットワークを通じて、地域企業のアジア進出といった“グローカル”ニュースを全国のメディアに配信するなど国内での存在感も高めつつあります。今後も、常にアジアビジネスの最前線にいらっしゃる皆様とともに歩み、貢献できる総合情報サービス企業を目指してまいります。
株式会社NNA
代表取締役社長 岩瀬 彰