「東西」の本から「亜州」を読み解く
アジアの本棚
『ヒルビリー・エレジー―アメリカの繁栄から取り残された白人たち』
J.D.ヴァンス 著
トランプを支持する白人労働者の屈折
われわれ日本人は映画の影響もあってか、ニューヨークやロサンゼルスといった大都市の生活を米国の象徴のように考えがちだが、実際には地方で地道に生きている労働者や農民の方が圧倒的に多い。彼らは金融やITに代表される現在の米国の繁栄から取り残され、増え続ける移民に雇用を脅かされていると感じている。私は、トランプ大統領が勝利した2016年の大統領選の直前にニューヨークに行ったが、知識人の間では「トランプなんて選ばれるわけはない」という見方が支配的だった。今にして思えば同じ米国人でも東海岸のエリートにはトランプ氏を支持した草の根層の感情が分かっておらず、主要メディアも彼らが何に対して怒っているかを十分伝えてこなかったように思う。今回ご紹介する『ヒルビリー・エレジー-アメリカの繁栄から取り残された白人たち』という本を読むと、米国社会の分断と格差の深刻さが頭に入ってくる。
ヒルビリーとは、ケンタッキーやオハイオなど米中西部と、東海岸の各州を分けるアパラチア山脈周辺出身の白人労働者層のことだが、「田舎者」的な意味で使われることも多い。筆者はオハイオ州の鉄鋼業を主要産業とする地方都市で育ち、海兵隊に入ってイラクに駐屯し、自ら「ヒルビリー」と認識しているが、帰国後にイェール大学ロースクールに進学し、現在は投資会社経営者という「両方の世界」を経験した人物だ。筆者の育った世界では、多くの若者が高校をドロップアウトし、名門校に進学するような生徒はほぼ皆無。男子は大量の飲酒やドラッグに走り、女子は高校生で未婚の母になるのも珍しくなく、全体に平均寿命も東海岸の富裕な州よりずっと短い。筆者の母親も薬物依存症で、祖母に育てられた。
筆者の周囲の人々は、オバマ前大統領に代表される東海岸のリベラルで裕福な層を強く嫌っていたが、「オバマ夫人は子どもに与えてはいけない食べ物に注意を呼びかけた。彼女の主張は正しいと知っているからこそ、私たちは彼女を嫌うのだ」といった非常に屈折した心理があると説明している。白人労働者層の寿命が短いのは不健康な食生活を続けていることもあるのだが、それでも「上から目線の正論」に対し「余計なお世話だ」という強烈な感情的反発が存在する。
しかも、「白人の労働者階級は自分たちの問題を政府や社会のせいにする傾向が強く、それは日増しに強まっている」という。彼らはメディアの報道は信用せず、自分たちの間で流通している「オバマはイスラム教徒だ」「本当は外国人だ」といった”都市伝説”の方を信じている。そこには「社会制度そのものに対する強い不信感がある」。
トランプ氏自身は東海岸の富裕層の出身だが、こうした白人労働者層の不満や疎外感をすくい取って大統領に当選したといえる。本欄は「アジアの本棚」ではあるが、米中貿易戦争の背後にある米国庶民の感情的なマグマを理解するうえでも本書をお勧めしたい。中国の王岐山国家副主席は昨年9月、海外からの客に「(アカデミー賞を受賞した)映画『スリー・ビルボード』を見て、なぜトランプ氏が多くの民衆の支持を得たのか少し分かってきた」と語ったそうだが、あの映画も暴力がまん延し、希望がない米南部の庶民生活を描いたものだった。
『ヒルビリー・エレジー―アメリカの繁栄から取り残された白人たち』
- J.D.ヴァンス 著 光文社
- 2017年3月発行
【本の選者】岩瀬 彰
NNA代表取締役社長。1955年東京生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業後、共同通信社に入社。香港支局、中国総局、アジア室編集長などを経て2015年より現職