【プロの眼】台湾映画界のプロ 西本有里
第3回 進化する伝統芸能「布袋劇」
映画化作品、トイ・ストーリーも打ち破る
台湾
1990年から約10年間、どん底状態が続いていた台湾の映画界。そこで奇跡的な興行収入を記録したのは、「布袋劇」と呼ばれる伝統的な人形劇だった。台湾映画界のプロで、布袋劇のコンテンツ制作会社の社員でもある西本有里氏に、進化し続ける台湾伝統の娯楽文化を解説してもらった。
布袋劇のキャラクターは「生(男性)」「旦(女性)」「淨(武将、強い個性を持つキャラ)」「末(老人)」「丑(滑稽なキャラ)」「雜(神仙・妖魔・僧侶など前述に分類できないキャラ)」などの6種に分けられる。伝統的な布袋劇の人形の大きさは8台湾インチ(約24センチ)で、人形師は通常1人で2体を操演する
「布袋劇」は、中国・福建省南部の泉州、漳州、広東省東部の潮州一帯に起源を発する、文学・哲理・語り・彫刻・刺しゅう・絵画・音楽・ドラマなど各種要素を組み合わせた伝統芸能です。人形の衣装が袋状の布で作られており、掌(手)で操演するため、このような名前が付いたと言われ、またの名を「掌中戲」とも言います。主な特徴としては、人形の顔は木彫り、台詞は全て閩南語(台湾語)で、口白師(こうはくし)と呼ばれる語り部が一人で全ての台詞・ナレーションを付けることなどが挙げられます。
台湾へは1750年代、中国から閩南語を話す漢民族が移って来た際に伝わり、初期は歌唱と台詞のみで構成された古典的な手法で演じられていましたが、清朝末期、中国からの移民が台湾で開拓民社会を形成する中、台湾の布袋劇は独自の発展を見せ始めます。当時流行していた軽快な「北管音楽」に合わせ、飛ぶ、打つ、跳ねるなど派手な立ち回りを加えた演出は、古来のスタイルから脱却し、庶民のニーズに応えた新たな娯楽として浸透していきます。1920年代には、仏教や道教、武術の鍛錬を積んだヒーローが悪を成敗する武俠物語に、巧みな剣術や派手な戦闘シーンを盛り込んだ「剣俠布袋戯」が人気を博しました。日中戦争が勃発してからは、皇民化政策によって閩南語を使った布袋劇が禁じられ、観客の心が離れていってしまう時期もありましたが、その後、布袋劇の人気は復活し、やがて不動のものとなっていきます。
変化を続ける台湾の布袋劇の中でも、特にその発展の礎を築いたのは2人の操演・演出家でした。台湾の布袋劇には「北の李家、南の黄家」と呼ばれる二大流派があります。うち李家は、日本統治時代の1910年に台北に生まれた李天祿氏を祖とします。李天祿氏は8歳から布袋劇を父に学び、22歳の若さで自身の劇団を立ち上げると、京劇をベースとした「外江戯」というスタイルで人気となります。第46回カンヌ映画祭で審査員賞を受賞したホウ・シャオシェン監督の『戯夢人生』(93年)では、この李天祿氏の回想をもとに、日本による統治が始まった1895年から敗戦で中華民国が進駐する1945年までの台湾が描かれています。
もう一つの流派は、南部・雲林県の黄家です。祖となる黄海岱氏は1901年に生まれ、私が務めている会社の開祖と言える人物です。14歳から布袋劇を父に学び始め、25歳で自身の劇団「五洲園」を設立します。黄氏の演じた布袋劇は、古典的な武俠ストーリーに、医学や占いの要素を盛り込んだり、火薬やスモークなどの特殊効果を加えたりする斬新な演出で、戦時中に心が離れてしまった観客を呼び戻したのです。
戦後には、布袋劇の演出形態にも大きな変化が現れました。布袋劇はそれまで神仏に捧げる目的で、寺や廟(びょう)周辺の野外に舞台を設ける形で演じられていましたが、47年の「二・二八事件」(国民党支配下の台湾で民衆への弾圧・虐殺の引き金となった事件)以後、野外公演が禁止されたため、50〜60年代には劇場の中で演じる室内公演に変化していきました。その際、黄海岱氏の息子の黄俊雄氏は、室内公演のニーズに合わせ、30センチほどの人形を約50センチまで大きくする改革を行います。そうして、人形の大きさや衣装、舞台背景をグレードアップさせ、演出にも様々な仕掛けを施した彼の「金光布袋劇」は台湾全土で大人気となります。
そしてテレビ時代の到来となった70年代、黄氏は更に大きなかじを切ります。劇場で大ヒットしていた布袋劇『雲州大儒侠 史艶文』を、テレビ番組として放映する決断を下します。テレビというメディアに合わせて表現手法を革新させたこの作品は、放映開始と同時に大評判となり、最高視聴率97%という驚異的な数字を叩き出します。番組は、「放映時間には子供はおろか議員までもが番組を観るために帰宅してしまい、都市機能が麻痺した」とのエピソードが残るほどの熱狂を巻き起こしましたが、政府は74年、「中国語(標準語)の推進」と「農工の正常な作業を妨害する」との理由から、放送禁止の命を下します。しかし黄家はこの逆境に屈する事なく、さらなる布袋劇の進化を目指していきます。
黄俊雄氏の息子である黄強華氏と黄文択氏の兄弟は検閲の厳しいテレビ放映に見切りをつけ、89年には「霹靂布袋劇」でレンタルビデオ市場に参入し、台湾布袋劇はまたも新たな時代を切り開くのです。霹靂布袋戯は強華氏と文択氏の兄弟が開発した新シリーズの名前です。脚本、カメラワーク、視覚効果を強化したこのシリーズは、当時の学生や社会人から圧倒的な支持を受け、熱狂的なファンを生み出します。
95年に霹靂布袋劇を専門で放映する衛星テレビ局を開設し、マーチャンダイジング商品を開発するなど多角的な経営を始めた黄兄弟は、さらに新たな挑戦を始めようと考えます。二人は小さい頃から父親が出向く各地公演に付き添い、布袋劇の演出を習得していましたが、兄の強華氏は台北公演があると暇を見つけては西門町の映画館に駆け込む映画少年で、映画制作に熱い情熱を持っていました。伝統芸能の枠に収まらない、世界標準の布袋劇を創造したいと考えた二人は、十数億円という巨額の費用を掛けて霹靂布袋劇シリーズの映画を大々的に制作することを決断します。
© 2000 PILI Multimedia Inc.霹靂国際多媒体の映画『聖石傳説』(2000年)のポスター。「3年間と3億台湾元(十数億円)を掛け、台湾の映画史上最高記録を打ち破った」とうたっている。1990〜2007年の期間中、興行収入が1億台湾元を超えた唯一の純台湾産映画となった
しかし当時の台湾映画界は、商業的にどん底の状況にあり、映画制作に進出すること自体がある意味で常軌を逸した行為だったため、このニュースを聞いた人は誰もが、映画を知らない素人集団が金にまかせて作るような作品は大失敗に終わるだろうと思っていました。しかし、ふたを開けてみると、映画『聖石傳説』(00年)は、同日公開のハリウッド映画『トイ・ストーリー2』を蹴散らし、台湾全土で興行収入1億台湾元(約3億6,000万円)を打ち立てる大ヒットとなったのでした。
西本有里(にしもと・ゆり)